【東京】御茶ノ水は大学のまち③

前回、②の続きです。
前回は湯島聖堂、今回は湯島聖堂以外で御茶ノ水に大学が集積した要因です。

※古い写真ですので、現在では異なっている所もあります。
※独自調査のため、不正確な部分が含まれます。

JR御茶ノ水駅

鉄道の利便性の向上は、大学集積の要因となります。
1904(明治37)年初代御茶ノ水駅ができました。東京都と甲斐国を結ぶ甲武鉄道の駅、駅はお茶の水橋西側に建てられました。千葉方面に行くには両国で乗り換え。

白土貞夫(2011):『絵葉書でつづる中央線今昔ものがたり』エイ出版社.

1923(大正12)年関東大震災でホームの損壊・崖崩れにより応急的なホームで営業。
1932(昭和7)年総武線乗入れ計画のために駅はお茶の水橋東側へ移転。2代目JR御茶ノ水駅は旅客の流動性を重視。4分間隔の運転、中央線と総武線の同一方向乗入れを想定して設計された能動的なホーム。この計画の際に、太田姫稲荷神社が遷座

1954(昭和29)年地下鉄丸ノ内線、1969(昭和44)年千代田線新御茶ノ水駅ができます。

太田姫稲荷神社

天然痘平癒の神社。室町時代、関東で天然痘が流行、太田道灌の娘が罹患。道灌が人を遣わせて京都の一口稲荷神社で平癒祈願、娘は全快。一口とは天然痘を払う、姫は娘の意味。
1457(長禄元)年江戸城築城時に鬼門除けとして城内に勧請。
1590(天正18)年錦町に遷座。
1606(慶長11)年駿河台4丁目聖橋南東に遷座。椋(むく)の木で元宮を示しています。

1872(明治5)年太田姫稲荷神社と改称。
1931(昭和6)年総武線開通工事のため駿河台1丁目に遷座

台地の空いた武家地利用

正井泰夫(1993):『江戸東京大地図:地図でみる江戸東京の今昔』平凡社.

武家地利用は、大学集積の要因となります。
江戸時代、江戸城周辺には武家地が多かった。江戸幕府の参勤交代制度や江戸城を守る役目があり、幕府は武士に土地を与えていました。後に明治維新で倒幕、明治政府が誕生、参勤交代制度や武士の役目や身分の消失で武家屋敷が不要に。地図 は1850(嘉永3)年-1853(嘉永6)年。


武家地は明治政府に継承、駿河台には駿河衆の旗本屋敷が多くあり、空き家が増加。御茶ノ水は本郷台と駿河台で構成された台地。江戸時代、基本的に台地は武家地、低地は町人地。理由は、台地上は景観が良い、洪水になりにくい、武士と町人では格が違うという権威づけのために居住地が分けられた。江戸から明治になると、明治政府は台地上の武家地を接収、台地上は低地より安く売られ、土地活用されます。なぜなら、水が供給できないので住むには適さない。しかし、大学は安く広い土地や権威を継承して知らしめるのに好都合でした。

内田宗治(2013):『水が教えてくれる東京の微地形散歩:凸凹地図でわかった!』実業之日本社.

講師確保の容易さ

講師の供給は、大学集積の要因となります。
本郷の東京大学と霞ケ関の官庁街には知識人がいます。その中間地点に位置する御茶ノ水では南北から講師として招き、大学の発展に寄与

次回、④に続きます。
御茶ノ水の大学です。