【東京】御茶ノ水は大学のまち②

前回、①の続きです。
前回は御茶ノ水の歴史などで、今回は湯島聖堂による大学集積の要因。

※古い写真ですので、現在では異なっている所もあります。
※独自調査のため、不正確な部分が含まれます。

湯島聖堂とは?

朱子学・学問の教育が行われていました。最初は幕臣、藩士、後に庶民が参加できるように。儒学は孔子が大成。儒学の中にはさまざまな学派が。幕府が思想統制に最適としたのが京学の朱子学

建物の説明

孔子を奉っている建物を孔子廟。湯島の前は上野にあり、孔子廟は先聖殿と呼ばれていました。湯島へ移転後、孔子廟のある大成殿や付属建物の講堂・寮などを総称して聖堂。後に、寛政の改革で特に大成殿を湯島聖堂、他の付属物は昌平坂学問所または昌平黌。しかし、一般的に湯島聖堂の名で通っています。

湯島聖堂の歴史・江戸

聖堂は林家の祖、林羅山が開いた私塾。聖堂の運営管理は林家が世襲。1605(慶長10)年羅山は初代将軍徳川家康に召され、行事のしきたり、古事、諮問への応答、公文書の作成、学問の講義を行っていました。

筑波大学・斯文会(2007):『孔子祭復活百周年記念事業草創期の湯島聖堂よみがえる江戸の「学習」空間』清流出版社.

家は神田にありましたが1630(寛永7)年3代将軍徳川家光の援助により上野忍岡(しのぶがおか)に別宅、書庫、塾舎を建てました。2年後、尾張藩徳川義直の援助で孔子廟の先聖堂を建設。西郷隆盛像から奥の清水観音堂のあたりにまであったとされています。

5代将軍徳川綱吉は学問に力を入れていました。聖堂の規模を大きくするために1690(元禄3)年湯島へ併せて講堂などの付属施設も移転、御茶ノ水が学問の中心地に。この時期から庶民も参加。

8代将軍徳川吉宗から10代将軍徳川家治にかけて湯島聖堂は衰退。吉宗は実学を重視、朱子学は理想的な思想統制では実学に勝てず廃れました。
11代将軍徳川家斉の頃、老中首座の松平定信が1790(寛政2)年寛政の改革を行い、寛政異学の禁が発令。朱子学の精神で幕臣の士風を引締めるため。林家の権限弱体化、幕府外部の学者を呼び寄せ、試験の導入、成績優秀者には褒美を与え、人事異動に影響、学問を奨励。

詳説日本史図録編集委員会(2008):『山川詳説日本史図録第2版』山川出版社.

筑波大学・斯文会(2007):『孔子祭復活百周年記念事業草創期の湯島聖堂よみがえる江戸の「学習」空間』清流出版社.

寛政異学の禁

朱子学以外の儒学を幕府の学問所で講義することを禁じました。朱子学を正学、朱子学以外の儒学を異学と定義。これまでは聖堂が衰退していて人を呼びよせるために異学を講じていましたが、この方法が禁止。聖堂は1797(寛政9)年昌平坂学問所と改称、昌平黌とも。林家の所有施設から脱却、幕府の学問の中心地となりました。昌平とは孔子の生まれた魯の昌平郷にちなんでつけられたもの。昌平坂学問所は官立の大学校となり、拡張工事を行い、権威を強化。

詳説日本史図録編集委員会(2008):『山川詳説日本史図録第2版』山川出版社.

湯島聖堂の歴史・明治以降

1868(明治元)年昌平坂学問所は明治政府に接収され、昌平学校に。上野にあったころからの教育は礎を築き、近代教育に影響を与えました。
1869(明治2)年昌平学校は大学校大学に。
1871(明治4)年大学は廃止、文部省、博物館(現・東京国立博物館)も設立。これは間接的に東京大学に影響を与えました
1872(明治5)年文部省の博覧会が行われ、師範学校の開校、図書館(現・国立国会図書館)が設立。

内山知也・本田哲夫(1990):『湯島聖堂と江戸時代』斯文会.

1873(明治6)年図書館(現・国立国会図書館)、書籍館(現・国立公文書館)が設立。
1874(明治7)年東京女子師範学校が開校。

両校移転後、この地に東京医科歯科大学順天堂大学が移転してきます。
近代教育の発展は、大学集積の要因となります。東京医科歯科大学前に碑があります。

次回、③に続きます。
湯島聖堂以外で御茶ノ水に大学が集積した要因です。