【東京】御茶ノ水は大学のまち①

スポンサーリンク




御茶ノ水は「大学のまち」。
JR御茶ノ水駅駅周辺の狭いエリアに5つの大学が集積。
現在は、東京医科歯科大学、順天堂大学、デジタルハリウッド大学、明治大学、日本大学。
過去には、東京大学、筑波大学、お茶の水女子大学、法政大学、東京理科大学、埼玉工業大学、中央大学。
御茶ノ水と大学の関係について書いていきます。
今回は、御茶ノ水全体。

※古い写真ですので、現在では異なっている所もあります。
※独自調査のため、不正確な部分が含まれます。

御茶ノ水という町名はない

町名とは法的な住居表示、地名は昔から伝えられている土地を指す呼び名(通称)。1962(昭和37)年住居表示に関する法律で多くの町名が消失。しかし、御茶ノ水はこの法律以前から町名なし。主にJR御茶ノ水駅北側の文京区湯島と南側の千代田区神田駿河台あたりの地名。お茶の水など、表記に統一性がない。

御茶ノ水の歴史

御茶ノ水には神田川が流れています。井の頭池から江戸川橋までの上流を神田上水、江戸川橋から飯田橋までの中流を江戸川、飯田橋から河口までの下流を神田川。1964(昭和39)年の河川法改正で全てを神田川。江戸のまちを開いたのは初代将軍徳川家康。家康が江戸を開く際、良質な水の確保を重視。江戸城の大手門近くは浅海で、西側は武蔵野台地。海の水や武蔵野台地の地下水は塩分が多いため、飲み水として使用不可、飲み水を確保する大事業を行いました。
神田上水、玉川上水の二大上水、特に神田上水に注目。63キロの神田上水を大久保藤五郎が1590(天正18)年家康の命令で井の頭池から神田、日本橋へと通しました。浄水処理をしていない河川水が地下の石樋や木樋を通って井戸に供給。
明治時代、江戸時代の神田上水、玉川上水はそのまま引き継がれ、長い年月が経っていたため、木樋の腐朽や下水の混入で水質が悪化。1886(明治19)年コレラが流行、上水への不安が広がった。近代的な技術を導入、人工的に水質の改善を促進。
東京都水道歴史館で神田川について詳しく学べます。

現地。神田川を挟んで碑が両側にある。

地名・御茶ノ水の由来

江戸のまちづくりには、神田川から隅田川へ合流させることが重要。2代将軍徳川秀忠は、水道橋から秋葉原までの約1キロの神田山を開削。開削してできた台地の北側を湯島台、南側を駿河台。神田川の開削前後、高林寺という寺がありました。1万坪の敷地内から湧き出している良質な水。この水はお茶に用いられ、秀忠に献上、大変気に入りました。お茶のための水にふさわしいということで御茶ノ水という言葉ができ、地名に。

高林寺はJR御茶ノ水駅北西側の元町公園にありました。アニメ『かなめも』の舞台は御茶ノ水、最後の写真の変な乗り物でレースごっこをしていましたよね?

高林寺

1657(明暦3)年明暦の大火後、文京区の本駒込に移っています。移転後、泉は残っていましたが1661(寛文元)年神田川拡張工事でなくなり、地名だけが残りました。現在の本駒込にある高林寺です。適塾の緒方洪庵の墓あり。

御茶ノ水の風景

景勝地として多くの文人が集まりました。安藤広重が描き、漢学者は茗渓と謳い、中国の景勝地赤壁にちなんで小赤壁と呼び、文人は舟から景色を楽しみました。赤壁とは中国湖北省長江の崖、「小」を入れることで日本人の謙虚さを表しています。

1902(明治35)年幸田露伴の『水の東京』より、江戸からの情景を伝え、「茗渓」という言葉が出ています。茗渓とは茶の谷という意味、洒落た呼び方で「御茶ノ水」を指しています。また、この地に筑波大学があったことから、同窓を「茗渓会」としています。

井上眼科病院

夏目漱石『三四郎』に登場する病院。夏目漱石がトラコーマの治療に通っていました。初恋の二重瞼の女に出会います。御茶ノ水は小説の舞台になりました。

山の上ホテル

文豪の御用達ホテル。川端康成、三島由紀夫、池波正太郎など。

ニコライ堂

東京復活大聖堂。JR御茶ノ水駅東の聖橋は、ロシア人修道司祭聖ニコライと湯島聖堂に由来。

神田明神

この日は成人式。人だかりがあるなあと思っていたら、AKB48か何かのアイドルが成人式に参加していたそうです。バスで出立、中は全くみえません。

丸善ワゴンセール

アニメ『かなめも』で出店していました。

次回、②に続きます。
湯島聖堂です。

スポンサーリンク